(これまでの増井俊之の「界面潮流」はこちら)
何かが存在することを示したり存在に気付いたりすることは簡単ですが、存在しない事物をうまく扱うことは簡単ではありません。シャーロックホームズの白銀号事件(Silver Blaze)では、事件発生時に犬が吠えなかったという事実に気付いたホームズが、それを手掛かりに事件を解決しました。何かが起こらなかったということに着目できたのはホームズならではということでしょう。これは「鳴かなかった犬の推理」(The dog that didn't bark)と呼ばれ、様々な場合に有効な思考法だそうですが、我々はホームズではありませんから、存在しないものには普段はなかなか気付きにくいものです。
利点を沢山聞かされたときは欠点に気付きにくいでしょうし、立派な理屈を並べたてられれば隠れた問題が見えなくなってしまうでしょう。私は先日、スペイン語では「k」という文字を使わないということを聞いて驚きました。言われてみれば確かに「k」のつく単語を見たことが無いのですが、そのことには全然気付いていませんでした。
不在情報の罠
何かが存在しないことに気付くのは難しいので、不在の利点はわかりにくいものですし、何かをわざと省略してあることに気付かないことも多いと思われます。以前、機能を絞った簡潔なコードを公開したところ、そのプログラムを誰かが後で「改良」し、無駄な機能が沢山ついた巨大な汚いコードになってしまったのに絶望したことがあります。わざわざ機能を絞ってあることに気付かず、善意で変更を加えてしまったのでしょう。
ボタンの数などを絞った簡潔なインタフェースの思想に気付かない人が、安直に機能やボタンを追加してしまうこともあります。機能やボタンが存在することには誰でもすぐ気付きますが、意識的に省いてある機能は気付かれにくいものです。誰かがシンプルさを追及したインタフェースを作った後で別の人が保守を受け継いだ場合、最初の設計者が苦労して省いた機能がつけ加えられてしまってシンプルさが台無しになってしまう可能性があります。無駄なものを後で追加されないようにするには、誰でもわかる形で省略の思想を表現する必要があるのかもしれません。
私が運営している本棚.orgやQuickMLなどのサービスは、ユーザIDもパスワードも登録せずに利用することができるようになっているのですが、ユーザやパスワードの登録が要らないことに気付いて喜んだ人はほとんどいないようです。ユーザの個人的な情報を扱うシステムなのにパスワードを使わずに利用できるということは大きなメリットがあると考えているので、私は自分のサービスでは極力ユーザIDやパスワードを利用しないようにしているのですが、「パスワードを利用しない」ということの利点はなかなか理解してもらえないようです。
以前の貧乏な記録という記事では自動的にファイルセーブを行なうauto-save-buffersというプログラムを紹介しました。このシステムを使うと、エディタで編集中のテキストがすべて自動的にセーブされるため、ファイルのセーブを行なうという手間が不要になります。これは非常に便利な機能なのですが、手間をなくすことは、出来ることを増やすことに比べると地味な機能変更であるためか、このシステムはそれほど話題になっていないようですし、様々なシステムでこの方法が採用されたという話も聞かないのは残念なことです。
デザインがシンプルであること・コードが短いこと・操作の手間が少ないこと・といった特徴は、何かの機能が存在することよりも重視されるべきだと思います。
不在情報の憂鬱
関連すると思われる情報から、実際に存在する情報を引算すれば、関連するはずなのにそこに存在しない情報(=不在情報)のリストを得ることができるはずです。
mixiにはあなたの友人かも?というサービスがあり、友人関係情報をもとにして別の友人を発見できるようになっています。この機能を利用することにより、登録を忘れていた友人を発見できることがあるのは確かですが、なんらかの理由により最初から友人関係を登録していない人物や、知らない間に登録を解消されていた人物もリストされてしまうので、不快な気分になってしまうことがあります。
不在情報は便利ですが注意して利用しましょう。