増井俊之の「界面潮流」

「界面」=「インタフェース」。ユーザインタフェース研究の第一人者が、ユビキタス社会やインターフェース技術の動向を読み解く。

第49回 電子書籍のインパクト

2010年11月11日

(これまでの増井俊之の「界面潮流」はこちら

最近「電子書籍」への期待が高まっています。本の値段が安くなるかもしれないとか、オンラインですぐ購入できるとか、大きな本を何冊も持ち歩くことができるとか、本棚が片付くかもしれないとか、小さな嬉しさは沢山あるはずですが、こういう変化は量的な変化であり、根本的な質的変化ではありませんからあまり強調しても仕方が無いようにも思われます。

どんな山奥に住んでいたとしても、電話や郵便が使えるならば、ネットで検索した最新の洋書を数日で入手することが可能なわけですから、前述のようなメリットしか無いのであれば電子書籍によって人々の生活が劇的に変化することはないでしょう。

しかし電子書籍の導入によってシステムに大きな変化が起こる領域が確かに存在します。多少便利になるかもしれない事例よりも、不可能だったことが可能になったりすることによって社会が大きく変わる事例について考える方が面白そうです。

誰もが作品を公開する

電子出版による最も直接的で大きな変化は「誰もが簡単に作品を書籍として公開できるようになること」だと思われます。現在すでに誰でもブログなどをWebで簡単に公開することができますから、これは実現されてるといえるかもしれませんが、今のところは雑誌や書籍とWebページは異なるものだと認識されているので、出版社の発行する書籍と同じ形で自分の作品を公開できるようになれば意識が変わると思われます。

きちんとした出版社から本を発行して自著が書店に並べられることを夢みる人は多いようなので、自費出版ビジネスが盛んなようですが、実は出版社に頼らず完全に自力で書籍を出版するためのハードルは最近はかなり低くなっています。以前は出版社を経由せずに書籍を販売することは困難でしたが、最近はAmazonの依託販売システムを利用して個人で印刷/製本した書籍を広く販売することができます。

書籍のIDであるISBNは個人でも取得することができますし、ISBNつきで印刷/製本した本をAmazonで依託販売することもできますから、ある程度手間をかければ自著を広く販売することは現在でも可能です。この方法が現在あまり普及していないのは印刷や製本に手間や金がかかるためだと思われますが、電子書籍であればそのような手間がかかりませんからハードルがさらに低くなることになります。

現在の書籍と同じように電子書籍が独占的経路で流通するならば、出版社の発行する書籍の優位性はゆるがないかもしれませんが、既存の流通と全く独立した経路で書籍を流通させようとするAndrobookのような試みが将来増えてくれば、現在の書籍のような販売経路の寡占状態はくずれてしまうでしょう。

ネット上での電子書籍の流通があたりまえになると、出版社の発行する書籍と個人が発行する書籍の区別は曖昧になり、読者から見ると両者は全く同様に扱われるようになるでしょう。

カテゴリの融合

書籍とブログの差が曖昧になるのと同じように、書籍と論文、論文とWeb記事の差なども曖昧になりつつあります。

従来は、新しい有益な技術情報は論文として学会の論文誌に掲載されるのが普通でしたが、最近はWebや一般誌にも有益な情報が大量に掲載されるようになっています。一方、学会の論文や口頭発表資料などがWebに載るようになってきたため、一般の記事と学会論文の見かけ上の差が小さくなってきており、学会の優位性が崩れてきています。

実際、CiNiiのような学術情報データベースで検索を行なうと学会の論文と雑誌記事が同列で出てくることもあります。有益な情報が欲しいユーザから見れば情報ソースが論文でも書籍でも雑誌記事でもかまわないわけですが、従来はこれらは明確に区別されていたため、情報源ごとに異なる検索方法を使う必要がありました。

Webの普及と書籍の電子化によってあらゆる情報を新しい形の書籍として統一的に扱えるようになれば、情報を求めるユーザにとっては検索が楽になります。論文を集めて書籍にしたものは論文なのか書籍なのか、といった分類に困ることもなくなるでしょう。

私が運営している本棚.orgは現在のところは市販書籍だけを対象としていますが、電子書籍も論文も記事も同じように扱える「著作物.org」のようなものに進化すれば有用性が増すと思われます。

権威の変化

ネットの普及によって様々なものの区別が曖昧になってきました。いろんな領域でプロとアマの区別が曖昧になってきています。出版物のカテゴリが曖昧になることにより、これまでの権威構造に大きな変化が起こるかもしれません。

書籍は誰でも発行できるため、まともな本もトンデモ本も同じような見栄えをしており同じように売られていたとはいうものの、書籍の発行はハードルが高いためおおむね書籍は信用できるものだと考えられており、出版社の名前が権威として成立していました。

学会から発行される論文は、専門家の査読を経た後で始めて出版されるため、学会の名前が権威になっていました。

しかし電子書籍の時代には同じような見栄えと流通経路をもつ文書が様々な経路で大量に流通するようになるため、従来の権威や評価方法が通用しなくなってくるでしょう。同じような内容と文書に対し、従来的な評価基準にもとづく権威を受け入れることは困難だと思われます。

権威というものは長年にわたる人々の評価の蓄積にもとづいているものですが、従来の権威が通用しない世界では新しい評価基準にもとづく有効な権威づけが必要になってきます。

書籍に限らず、従来は権威だと思われていたものの価値が大きく変化してきています。新聞やテレビの権威がかなり低下し続けている一方、ソーシャルブックマークのような集合知の権威は増大しています。出版社や学会の権威はかなり流動的である一方、新たに勝手に設立した「XX文学賞」のようなものが短い期間で権威を確立することがあるかもしれません。

権威が変化することは既得権者にとっては悪夢かもしれませんが、世の中の活性化には有益でしょう。電子書籍の普及によりこのような動きが促進されそうなことは興味深いと思われます。

書籍の新しい楽しみ方

電子書籍以外にも、新しい書籍の利用形態がネット上に続々と出現しています。

共同執筆

オライリーは、書籍を発行する前に広くコメントを求めることができるOpen Feedback Publishing Systemというシステムを導入しており、執筆中のMacRubyの解説書などで実際に著者との間で以下のような細かいコメントのやりとりが行なわれています。

このシステムでは著者と読者が対等ではありませんが、リレー小説のように複数の著者が対等に本を作っていくこともできるかもしれません。ネット上で様々な共同執筆システムが出現することが期待されます。

ソーシャルリーディング

書籍は普通はひとりで読むものですが、読書の状況をネット上で共有するソーシャルリーディングという楽しみ方が出現しています。リアルタイムに読書情報を他人と共有することはこれまでにない面白さを含んでいる可能性があります。

ネットサービスとの連携

電子書籍を既存のWebサービスと連係させると様々な面白いサービスができそうです。慶應大学の吉原建氏は、書籍に登場する場所情報をGoogleMapsと組み合わせたBook's Markingというサービスを作成しています。ユーザはBook's Markingの地図上に書籍を登録することができ、実世界と本の内容との結び付きを実感することができます。

協調フィルタリング

本棚.orgのデータを使って各種の演算を行なうことにより、本棚演算で提供しているような協調フィルタリングを行なうことができますが、電子書籍時代には論文やWeb文書などを含むあらゆる文書に関して協調フィルタリングが可能になるでしょう。

このようなデータが充分蓄積されれば信用できる情報となり、権威として成立する可能性があるでしょう。

電子書籍は「新しい書籍」というよりも「新しいコミュニケーション」の道具になる時代が近付いてきています。「書籍」という名称に惑わされず、その影響がじわじわ浸透していくことを期待したいと思います。

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プロフィール

1959年生まれ。ユーザインタフェース研究。POBox、QuickML、本棚.orgなどのシステムを開発。ソニーコンピュータサイエンス研究所、産業技術総合研究所、Apple Inc.など勤務を経て現在慶應義塾大学教授。著書に『インターフェイスの街角』などがある。

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