- 著者
- 高島 俊男
- タイトル
- 漢字と日本人
- 日時
- October 2001
- 出版
- 文春新書
- コメント
- 自分にとってこれだけ勉強になった新書も珍しい。
平易に書かれており、
常々疑問に思っていたようなことの答がいろいろ書いてあって非常に勉強になった。
漢字についてはよく知っていると思っていても
実際には本質を何も知らない人も多そうである。
(筆順や送りがなにこだわる教育者など)
日本語には漢字が沢山使われており、日本人はそれがあたりまえのことだと思っているが、
実際は漢字(というか支那文字)というものは中国語のための文字であって
日本語とは全くマッチしないものであり、
漢字をくずして表音文字(かな)を作ってみたり/
訓読みというものを発明してみたり
(e.g. dogを「いぬ」と読むようなもの)/
明治のころには欧米の概念を表現する単語を無理矢理創作したり
(e.g. right→「義務」)/
することによってなんとか日本語が近代言語として成立しているという、
世界的にも特殊な状況であることがよくわかった。
ストーリーをまとめると
「日本語と漢字については歴史的に紆余曲折があり、
かなり奇妙な状況になってはいるのだが、
現状を受け入れつつ漢字と共存していかなければならない」
ということになるのだが、
その紆余曲折があまりにも面白い。 - 内容
時代とともに
* 日本列島では、類縁言語をもたない日本語という言語が使われていた。
* 大陸に比べると日本語は新しかったため、文字はなかったし抽象概念を表現する言葉もなかった。
* 支那には古くから文字があり、日本と支那とは交流があったため、
日本語を表現するために支那の文字を使おうと考えた。
* ところが日本語と中国語は全く異なる系統の言語であったため、輸入法が一筋縄ではいかなかった。
* このために訓読みだの仮名だのが発明された。
* 中国語は発音が多いので、文字ごとに発音は異なるのが普通なのであるが、
日本人は単純な発音しかできないので、
いろんな文字をすべて同じような発音にしてしまった。
* たとえば"kang"のような発音を「かん」「かい」にしたり。
* 明治になって、西洋から各種の抽象概念や事物が流入してきた。
* それらを表現する日本語として、漢字をふたつあわせてた単語が大量に発明された。
* 江戸時代の単語は「同心」とか「奉行」とか「大工」とか、文字の意味と全然関係ない
意味をもつようなものが多かったのだが、明治で発明された単語は
もっぱら意味を組み合わせて作られたもので、
文字の読みは考慮されることがなかった。
* こういうわけで、同じような発音をもちつつ全く意味の異なる単語が大量に出現した。
「公園」「講演」「後援」,etc.
* こうなってくると、単語は発音だけでは意味をなさず、
漢字と組み合わせてはじめて意味をもつことになる。
「カテーノモンダイ」といっても「仮定の問題」なのか「家庭の問題」なのかはわからない。
* これは言語としてはかなり奇妙な状況であるが、そうなってしまっているものはもう仕方がない。
* なのに何故か、明治のころから「日本が発展しないのは漢字なんか使ってるからだ」という意見が
幅をきかせるようになってきた。
* こういう人達は漢字を全廃することを最終目標とし、
教育の場で漢字の使用制限を行なったりすることにより
最終的にはすべての日本語をかなかローマ字で表現するのが理想だと思っていた。
* ところが日本語はすでに文字の字面と独立しては存在できない状況になっており、
そのような試みは不可能であった。
その結果、漢字撤廃運動は完全に失敗し、変な途中結果のみが残っている。
現在変な簡体文字が世間で沢山使われているのはこのためである。
現代英語は
もともとのイギリス言葉にラテン語/ギリシャ語などがあわさってできあがったものだし、
現代スペイン語にはアラビア語がかなり沢山入っているのだろうが
我々からみるとそんなことはほとんどわからない。
どの言語も日本語と同じような畸型性を持っているのだろうが、
それでもやはり日本語は世界一レベルの畸型性を持っているだろうとは思われるのであった。
- カテゴリ
- Misc,
Recommended,
Kokugo
ISBN: 4166601989
Category: Misc Recommended Kokugo
Comment: 自分にとってこれだけ勉強になった新書も珍しい。
平易に書かれており、
常々疑問に思っていたようなことの答がいろいろ書いてあって非常に勉強になった。
漢字についてはよく知っていると思っていても
実際には本質を何も知らない人も多そうである。
(筆順や送りがなにこだわる教育者など)
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日本語には漢字が沢山使われており、日本人はそれがあたりまえのことだと思っているが、
実際は漢字(というか支那文字)というものは中国語のための文字であって
日本語とは全くマッチしないものであり、
漢字をくずして表音文字(かな)を作ってみたり/
訓読みというものを発明してみたり
(e.g. dogを「いぬ」と読むようなもの)/
明治のころには欧米の概念を表現する単語を無理矢理創作したり
(e.g. right→「義務」)/
することによってなんとか日本語が近代言語として成立しているという、
世界的にも特殊な状況であることがよくわかった。
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ストーリーをまとめると
「日本語と漢字については歴史的に紆余曲折があり、
かなり奇妙な状況になってはいるのだが、
現状を受け入れつつ漢字と共存していかなければならない」
ということになるのだが、
その紆余曲折があまりにも面白い。
Bibtype: Book
Contents: <pre>
時代とともに
* 日本列島では、類縁言語をもたない日本語という言語が使われていた。
* 大陸に比べると日本語は新しかったため、文字はなかったし抽象概念を表現する言葉もなかった。
* 支那には古くから文字があり、日本と支那とは交流があったため、
日本語を表現するために支那の文字を使おうと考えた。
* ところが日本語と中国語は全く異なる系統の言語であったため、輸入法が一筋縄ではいかなかった。
* このために訓読みだの仮名だのが発明された。
* 中国語は発音が多いので、文字ごとに発音は異なるのが普通なのであるが、
日本人は単純な発音しかできないので、
いろんな文字をすべて同じような発音にしてしまった。
* たとえば"kang"のような発音を「かん」「かい」にしたり。
* 明治になって、西洋から各種の抽象概念や事物が流入してきた。
* それらを表現する日本語として、漢字をふたつあわせてた単語が大量に発明された。
* 江戸時代の単語は「同心」とか「奉行」とか「大工」とか、文字の意味と全然関係ない
意味をもつようなものが多かったのだが、明治で発明された単語は
もっぱら意味を組み合わせて作られたもので、
文字の読みは考慮されることがなかった。
* こういうわけで、同じような発音をもちつつ全く意味の異なる単語が大量に出現した。
「公園」「講演」「後援」,etc.
* こうなってくると、単語は発音だけでは意味をなさず、
漢字と組み合わせてはじめて意味をもつことになる。
「カテーノモンダイ」といっても「仮定の問題」なのか「家庭の問題」なのかはわからない。
* これは言語としてはかなり奇妙な状況であるが、そうなってしまっているものはもう仕方がない。
* なのに何故か、明治のころから「日本が発展しないのは漢字なんか使ってるからだ」という意見が
幅をきかせるようになってきた。
* こういう人達は漢字を全廃することを最終目標とし、
教育の場で漢字の使用制限を行なったりすることにより
最終的にはすべての日本語をかなかローマ字で表現するのが理想だと思っていた。
* ところが日本語はすでに文字の字面と独立しては存在できない状況になっており、
そのような試みは不可能であった。
その結果、漢字撤廃運動は完全に失敗し、変な途中結果のみが残っている。
現在変な簡体文字が世間で沢山使われているのはこのためである。
現代英語は
もともとのイギリス言葉にラテン語/ギリシャ語などがあわさってできあがったものだし、
現代スペイン語にはアラビア語がかなり沢山入っているのだろうが
我々からみるとそんなことはほとんどわからない。
どの言語も日本語と同じような畸型性を持っているのだろうが、
それでもやはり日本語は世界一レベルの畸型性を持っているだろうとは思われるのであった。
</pre>
Month: oct
Author: 高島 俊男
Title: 漢字と日本人
Year: 2001
Date: 2004/02/18 09:44:28
Publisher: 文春新書